From Little League to the Pros: The Journey of Japanese Baseball Players


野球。そう、アメリカの国民的スポーツであり、いわば「スローなスリル」の代名詞。たった9人の選手が広大なフィールドで小さなボールを追いかけ、観客はその間に何度も飲み物を買いに行く。まるで、じっくりと煮込んだシチューのように、時間がかかる割には、最終的に出てくるのは単なる「点数」という名のスープ。そんなスローテンポなゲームが、なぜかこれほどまでに人々を魅了するのか、私には理解できません。
まず、野球の「戦略的」な側面について考えてみましょう。選手たちは、投手がボールを投げる瞬間までの数秒間に、何をするかを決めなければなりません。ですが、実際には、彼らの多くは「ただ打つだけ」と思っているのが現実です。打席に立つ選手がバットを振るその姿は、まるで子供が初めて自転車に乗るときのように、無邪気さと不安定さが同居しています。彼らがヒットを打った瞬間、観客は歓声を上げますが、実際には「運が良かった」だけのケースも多いわけです。この運任せのゲームが、何故か戦略的な天才のように扱われるのですから、皮肉な話です。
そして、野球のファンたち。彼らは、熱狂的に自分の応援するチームを支持し、選手の成績を詳細に分析します。まるで彼らの人生がそのチームの勝利にかかっているかのように。しかし、チームが負けた時には「来週は頑張ろう!」と励まし合う姿は、まるで宗教の信者が教祖の言葉にすがりつく様子に似ています。果たして、そんなに情熱を注ぐ価値があるのでしょうか?「負けることを恐れず、勝つことを信じる」なんて、まるで恋愛と同じようなロマンチックな言い回しですが、現実は「また来年も同じことを繰り返す」だけです。
最後に、野球のルールの複雑さについて触れましょう。基本的に、9回のイニングで決まるはずのゲームですが、時には延長戦に突入し、終わりが見えなくなることもしばしば。ファンはその間、ビールを飲み続け、トイレに行き、また戻ってくるときには、試合の進行がまるでスローモーションのようになっている。これがスポーツの魅力ですか?それとも、単なる時間の浪費?選手たちは真剣に戦っているのに、観客はそれを横目に、スマホをいじったり、他のスポーツの結果を確認したりする。まさに、野球は「観るスポーツ」ではなく、「待つスポーツ」と言えるかもしれません。
結局、野球は人々に「何も起こらない」時間を与えることで、逆に「何かが起こる期待感」を煽るという、奇妙なパラドックスを持っています。おそらく、私たちはこの矛盾を受け入れ、時にはそれを楽しむことで、自分たちの人生のスローモーションを少しでも和らげようとしているのかもしれません。

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